南米チリの仄暗い過去

先日Netflixで映画コロニアを見た。

比較的最近になってドイツで文書の機密解除がされたということもあり、日本ではまだあまり知られていないコロニア・ディグニダを題材とした映画である。

 

コロニア・ディグニダの概要はこちらの記事が簡潔でわかりやすい。

 

テーマを理解したうえで見ているのでわからないことはないが、短縮版なのでは?と思うほど説明が端折られすぎているので映画としては評価し難いものがあった。

とはいえ作中での出来事の多くは実際の被害者の証言に概ね基づいているようで、現実に起こった出来事を想起させる資料的な価値は感じる作品だった。

余談ながら、Netflixのジャンルタグに「心がかき乱される」とありそわそわしていたら、序盤でいきなりニコンFが破壊されて非常に心がかき乱された。

 

そんなコロニア・ディグニダの被害者に対しての補償がつい数日前に始まったという記事が経緯を含めそれなりにまとまりのあるものだったので、自分のための資料として全文訳をした。せっかくなのでそれをここで公開する。

 

第二次世界大戦後、ODESSA(Organisation der ehemaligen SS-Angehörigen - 元ナチス親衛隊のための組織)の手助けによって数多くの元親衛隊員が南米へと渡った。

凡庸な人間が権威者の指示に従うと想像を超え冷酷な行動をとってしまうということを示したアイヒマン実験(ミルグラム実験)の名となっているAdolf Eichmann - アドルフ・アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンで捕らえられたことなどはよく知られている。

そして件のコロニア・ディグニダには双子実験で有名なSSの医師Josef Mengele - ヨーゼフ・メンゲレが一時滞在していた。

 

ただ、近年のドイツ国内におけるコロニア・ディグニダ関連の報道にナチスの文字はない。

ナチス絡みの話は慎重に扱わなければいけないため消極的に書かれているのか、実際にはナチスと関係のない施設だったのかは判然としない。

コロニア・ディグニダの指導者であるシェーファーがアルゼンチンで捕らえられた当時は、元ナチ党員と報道されていた。

これに対しWikipediaを情報源とするのは些か不本意ではあるのだが、ドイツ版のシェーファーのページには

Entgegen Medien- und Eigendarstellungen war Schäfer nie Offizier in der Wehrmacht oder Mitglied in nationalsozialistischen Organisationen, sondern Pfleger und nahm als Sanitäter in Frankreich am Zweiten Weltkrieg teil.

「メディアや本人の言とは裏腹に、シェーファーがナチスドイツ国防軍将校だったこともナチ組織の構成員だったこともない。世話人であり、二次大戦にはフランスで衛生兵として参加した。」

 とある。

ゲーレン機関を代表とする戦後ナチスの残党は冷戦下のアメリカで重用されたという事実もあるので、政治的事情から言及を避けているのかもしれない。

 

いずれにせよ当時のチリ軍事独裁政権とドイツ大使館が関わり非人道的な行いが長く見過ごされてきたことに変わりはない。

訳出した記事は現在跡地にて運営されるヴィジャ・バヴィエラが再び閉鎖的社会へと向かってしまうのではないかと思わせる不穏な文章で締められる。

こうして訳出したものを公開することで問題を考えるための一助となればと思う。

 

前置きが長くなったが以下全訳である。

 

 

カルト指導者 Paul Schäfer - パウル シェーファーは少年たちを虐待し、少女たちを“肉叩き(*1)“によって服従させた。

2020年4月22日 記者 : Denis Düttmann

 

自らを青少年世話人と称するパウル・シェーファーは1961年に強権支配の入り口としてのColonia Dignidad - コロニア・ディグニダをチリに設立した。

そこでは強姦が当たり前のように行われていた。宗派本部はピノチェト独裁政権の拷問収容所として機能した。

 

 

1973911日 チリ、数十万人がPräsident Allende - アジェンデ大統領に対しクーデターを起こし権力を握っているピノチェト将軍に抗議した。

エマ・ワトソンが演じるレナとダニエル・ブリュールが演じる恋人のダニエルはデモ参加者である。

出典: Majestic(*2)

 

パウル・シェーファーは自身を神だと思っていたが、犠牲者達にとっては悪魔だった。

ドイツの素人伝道師たるシェーファーはチリのコロニア・ディグニダ(尊厳のコロニー)で恐怖支配を確立、およそ200人の少年に暴行し、信徒を非人道的な条件で働かせ、Augusto Pinochet アウグスト・ピノチェト将軍の軍事政権を支持した。

 

2010年4月24日にシェーファーが死んでから10年の時を経て、ドイツとチリの犠牲者達はようやく苦痛に対する補償を受けるに至った。

CDU - ドイツキリスト教民主同盟 / CSU - バイエルンキリスト教社会同盟の人権政治報道官Michael Brand - ミヒャエル・ブラントは「数日前に初回の直接的支払いが被害者らに行われた」と述べている。

ブラントは他政党の議員と一丸となり長きにわたって犠牲者が最大10000ユーロ(およそ120万円)の金銭的援助を受けられるよう尽力してきた。コロニア・ディグニダの約200人の犠牲者達が年末までに支援を受けられることをブラントは期待している。

 

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神だと思っている悪魔 : カルト創設者パウル・シェーファー(1921-2010)
出典: picture-alliance / dpa

 

1921年にボンで生まれたシェーファーは戦後カトリックとプロテスタントの施設で青少年世話人としての職を得た。

しかし雇用主は関連する報告を受けたことによって、当時の小児性愛傾向者への対応と同様、迅速にシェーファーを現場から引き離した。 

少年たちがシェーファーから性的幻想について尋ねられたり、休暇キャンプで他の子供達から殴られるために服を脱ぐことを強要されたりしていたからである。

 

シェーファーは、権威、禁欲、急進的な折衷主義、民主主義への侮蔑からなる彼の思想が原理主義者の間で人気を得ていることを認識した。

そして1950年台半ばにボンからそう遠くない地に „Private Sociale Mission - 私的な社会的使命“ を設立。シェーファーの支持者達は無償で養護施設を建て、それが強権支配の入り口となった。

少年たちは虐待され、悪魔払いをされ、賃金は引き渡さねばならず、外界との繋がりが断たれた。

„Herrenrunden - 紳士の周囲“ とシェーファーが呼称する夜には少女たちが殴打により激しく罰せられる。いわゆる売春婦の精神を追い払うための肉叩き(*1)である。

 

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幾度にもわたりシェーファーは個別に少年を選び虐待した : コロニアディグニダの子供達   
出典: picture alliance / dpa

 

一部の親の告発により検察省は策謀に目を光らせることとなったが、シェーファーは支援者達の助けを得て1961年にチリへと逃れることに成功。

赤軍がまもなくドイツに進駐してくるというシェーファーの予言と、「約束の地における原初のキリスト教的生活」という未来像に後押しされた200人の信者がそれに続いた。

 カルトの信望者たちはサンティアゴの南400kmアンデス山脈のふもとに工場、農場、住民が無料で手当てを受けられる病院を備えたモデル農場を素手で建設した。

 

それと同時にコロニーは何十年もにわたって拷問、強制労働、児童虐待をもたらした。

チリの軍事独裁政権下では政権に反対する者たちもその封鎖された地域で拷問され殺害された。

ARDのドキュメント Colonia Dignidad – Aus dem Innern einer deutschen Sekte (von Annette Baumeister und Wilfried Huismann) - コロニアディグニダ - ドイツのカルトの内部から

にて元カルトの構成員であったヴィリ・マレッサ Willi Malessa(*3)は「彼は何十年ものあいだ悪魔だった。」と述べている。

 

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1960年 ジークブルクの青少年施設でのシェーファー 出典: picture alliance/dpa

 

シェーファーは信者を操作し自らに依存させることに成功していた。

Robert Matthusen - ロバート・マトゥーセンはこのカルト指導者について「彼のためなら火の中にも飛び込んだであろう。」と述懐する。「私には明らかだった、その男が神のような姿をしていることが。」

シェーファーはカルトの構成員に対し完全なまでの統制を果たした。

家族は離れ離れに、子供たちは両親と共に生きることは許されなかった。

マレッサ(*3)曰く、「彼はあらゆる扉に足を踏み入れることを望んだ。家族はすべてを破綻させられたのではないか。」

 

シェーファーは(社会的)関係を持つことを許さなかった。少年と少女、男性と女性、さらには結婚した夫婦であっても別居し互いに接触することなく働かされていたのである。

また、シェーファーは女性を軽蔑していた。「お前は怠惰で悪臭のする肉の塊だ。」という発言が録音テープに記録されている。

女性は可能な限り女性らしからぬ装いをする必要があり、髪の毛はスカーフで隠され、また胸を隠すためにその身をかがめる必要があった。

 

参考記事 : カルトの被害者 「存在しなかった残虐行為などない。」

(コロニア・ディグニダ内の医師でシェーファーの性的虐待を幇助したと言われているHartmut Hopp - ハルトムート・ホップに関する記事)

 

シェーファーはコロニア・ディグニダ内に恒久的な密告体制を確立した。

子供たちは互いを監視し、他者を悪く言うよう促された。

そしてシェーファーは幾度となく少年を選び、入浴し、虐待した。ベッドサイドのテーブルには常にピストルがあったとマトゥーセンは回想する。

 

1970年に左派大統領 Salvador Allende - サルヴァドール・アジェンデがチリで権力を握った時、シェーファーは有刺鉄線や障害物、監視塔、貯蔵庫などによってコロニーを守ろうとした。彼はアジェンデ大統領が土地改革の一環としてコロニアディグニダを国有化するのではないかと恐れていた。

そしてシェーファーはドイツ内に隠していた武器をチリへ輸送した。カルトの構成員達はドイツからの部品で銃・ピストル・爆弾を組み立てた。

 

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1988年に撮影されたコロニア・ディグニダ集落の正門 出典: picture-alliance / dpa

 

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戦慄の現場 : コロニア・ディグニダのジャガイモ貯蔵庫 出典: picture alliance / dpa

 

1973年にアジェンデ大統領に対する軍事クーデター(*4)がアウグスト・ピノチェト将軍の指揮によって勃発すると、シェーファーはクーデターを歓迎し秘密警察であるDinaにコロニーの使用を許可した。それにより政治犯はジャガイモと穀物の貯蔵庫で拷問を受けることとなった。

幼少期に拷問部屋の上の仕立て屋で働き寝起きしていたGeorg Laube - ゲオルク・ラウベの言によると、「それは毎晩狂ったような悲鳴でした。」

 

ピノチェトが1974年の夏にコロニア・ディグニダに訪れた際にシェーファーはメルセデスベンツを贈り、その見返りとして金とウランの採掘権を得たことに加え、地域の警官を選ぶことが許された。

そしてチリに対する米国の禁輸措置の後、シェーファーは軍事独裁政権のとりわけ武器調達を支援した。

 

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「人間に対する侮辱のモデル農場」 : 大家族写真のために集められたコロニアディグニダの住人達 出典: picture alliance / dpa


1970年代にはコロニーで行われた犯罪行為が既に示唆されていた。

元ドイツ連邦首相 CDU所属のNorbert Blüm - ノルベルト・ブリュームはチリを訪問した後「このコロニーは人間に対する侮辱のモデル農場である。そしてここで有罪であるのはドイツ人であるが故に、我々にも影響を及ぼしている。」と発言した。

しかしながらブリューム首相は連邦政府が物事の根底を突き詰める気がほとんどないという確信を持ち、ボンで孤独に過ごした。

 

チリが民主主義へと戻った後、チリ警察はコロニア・ディグニダ指導部に対する調査を開始。

シェーファーは1990年代後半にアルゼンチンへと逃亡、2005年に捜索隊により発見され、チリで児童虐待と暴行による懲役刑を受け2010年4月24日サンティアゴの獄中にて88歳で死亡した。

 

現在コロニア・ディグニダの跡地では元カルト構成員がVilla Baviera - ヴィジャ・バヴィエラとしてレストランを運営している。(*5)

「この場所で起きた想像を絶する犯罪行為、小児性愛のサディスト パウル・シェーファーによる犯罪とチリ軍事独裁政権による犯罪は双方とも最終的に体系的に調査されなければならない。」と、連邦議会議員ブラントは要求する。

「拷問部屋、無防備な子供たちが虐待され、人々が強制労働をさせられ、政治的反対者が拷問され殺されたりした場所が、今日では結婚式や家族の祝い事で使われていることは看過できない。」

 

シェーファーの死から10年、以前の指導者達はヴィジャ・バヴィエラを再興しつつあるようだ。

最後に、住民達はWhatsapp(*6)で知らせを受け取った

「コロナパンデミックのため、訪問者と親戚が敷地内に立ち入ることは禁止されました。」

送信者はFriedhelm Zeitner - フリートヘルム・ツァイトナー、シェーファーの元ボディーガードを務めていた人物である。

 

 

*1 原文にあるSchinkenklopferであるが、Schinkenはハムなど豚のもも肉を指し、klopfenは主にドアなどをトントンと叩く際や心臓の鼓動に使う動詞なので肉叩きと訳出した。

造語かと思いきやDudenを引くと意味はSpiel - 遊びとある。

 

実際にこのような動画を見つけたが、これは一体どういった遊びなのだろうか…。

 

*2 本文中ではドイツ語吹き替え版の動画を載せているがここではオリジナル音声のものを引用した

 

*3 文中にて出てきたテレビ局ARDの番組サイトでは元構成員達の経験談を読むことができる。

https://www.daserste.de/information/reportage-dokumentation/dokus/sendung/colonia-dignidad-biographien-100.html

マレッサの事例をここに訳出する。

マレッサは10歳を迎える前にジークブルクの近くハイデにある青少年施設 Privaten Socialen Mission - 私的な社会的使命にやってきた。

数日と経たぬうちに彼はシェーファーから虐待を受けることとなる。マレッサは母にそれを打ち明けるが信じてもらうことはできなかった。

1961年の春にはチリに初めて渡った一団の一員として、コロニアディグニダ建設予定地で将来的な入植者のための準備を手伝った。マレッサは仕事を楽しみ、コロニーにおける最高の技術者となった。

シェーファーは金鉱山の責任者及び機械オペレーターとしてマレッサに信頼を置いていたにも関わらず長きに渡って虐待し何度も激しく殴打したが、マレッサはシェーファーを「伝道師であり神の人」として甘受していた。

マレッサが頼りになると思ったシェーファーは、1978年に殺害されたチリの反対勢力の遺体を掘り起こして焼却するようマレッサに命じた。 今日それを話すマレッサの瞳からは激しく涙が流れ出る。この出来事は彼の人生において転換点となった。

マレッサはシェーファーのために「多くのことを成し遂げ作ってきた」ことを認識し、Edeltraud Bohnau - エーデルトラウト・ボーナウ(当該ページ冒頭に証言が掲載されているコロニー構成員の女性)に助けを求める。

そして長年先延ばしにされた末ようやく彼女と結婚することができた。

2014年にマレッサはチリの犠牲者に対する責任があるとし、犯罪行為について知りうることを明らかにすることを決心。1978年に「消えた」40もの遺体を掘り起こした場所と、それらがナパームで焼かれた場所を調査員達に示した。

現在、彼は妻のエーデルトラウト・ボーナウと共にチリに住んでいる。 彼は生涯お金を稼いだことがなく、年金の権利もないため、生活のために小さな施盤工を経営している。

 

*4 歴史的に初めて民主的に誕生した社会主義政権であるアジェンデ政権は冷戦下において共産主義の不当性を主張していたアメリカにとって都合が悪かった。それゆえこのクーデターにはアメリカの支援という後ろ盾があったと言われている。

 

*5 現在ではバイエルンの村としてオクトーバーフェストなどを行い観光地化を目指しているようだが、軍事独裁政権下での犠牲者達の怨嗟は根深い。

https://www.deutschlandfunk.de/die-fruehere-colonia-dignidad-in-chile-vom-folterzentrum.724.de.html?dram:article_id=342990

 

*6 ヨーロッパでは一般的なLINEに類するメッセージアプリ